ぼくの「死にたいワケ」と「生きたいワケ」
こんばんは。深夜に何を書いているんだって話ですが、文にしたためたくなったのでまとめます。
先月の下旬ごろに、自分は遺書を書きました。勢いというよりかは、死について考えこんで、「自分はなぜ死にたいのか」分析しながら書きました。
理由も4つ挙げて、
①今の神経症やトラウマのフラッシュバックが耐え難いから
②セクシュアルマイノリティであることの多大な社会不安、生きづらさ
③大学まで行ったのに、努力したのに報われなかったという虚しさ
④他者とかかわるのがこわい、ただ人目に触れるだけでも自分の評価が怖くてたまらない
詳細は省きますが、以上の理由からもう「花道に行かせてくれ」と書いたのです。
キリスト教的観点だと、(教えられた限り)死んだら天国で安らぎを得られる、つまり死は天国への花道だから。
(もちろん、自殺を奨励しているわけでは全くありません)
地獄へ行くのではなく、社会に殺された、病気に殺された人として、神様(キリスト)に抱きしめてもらえるーーそう、感じたのです。
でも、偶然なことに朝早く起きた友人からコンタクトがあり、思ったのです。「まだ天国にある自分の家は建設中なのかな」と。同時に、死んだら彼だけでなく、周りの人みんなに少なくともいい影響はない、そして神様も悲しむことは悲しむと。
だから今、生きづらさを感じつつも生きています。
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遺書に書いた「死にたいワケ」と同様に、その少し前「生きたいワケ」も書きました。
10個ほど、無理やりですが挙げてみました。
①追いつめてきた人のせいで(特に親)死ぬのは癪だから。向こうに勝たせたくない。
②死んだら悲しむ人は少なくとも数人はいる
③自殺の九割は未遂に終わってかなりの人が深刻な後遺症を負う、そして苦しんでいる
⑤死ぬ前に行きたいところやりたいことはある(アジア圏(特に台湾)に行く、自伝を出す)
⑥今死んでも天国には行けるけど神様のご計画ではないはず、悲しませてしまう
⑦まだ知らないことが沢山ある、せめて色んなこと知ってから死のう
⑧悲しむ人と被るけど大切な人たちがいる
⑨自分でも何か貢献できるはず。だから今懸命に働こうとしているのに水の泡にはしたくない
⑩死ぬならそれ相応の爪痕を社会に残せ!(自伝がそのひとつかもしれません)
無理やりですがこんな感じです。
もちろん希死念慮が来るとそう簡単に割り切れませんが、これでギリ保っています。
十何年もうつだけど、なんとか笑えるといいなあ。
充実した日が来ることを願っています。毎日しんどいけど、それでも友人やTwitterのフォロワーさんがいてくれることがとても嬉しいです。
生きづらいのは確実だけど、やっぱり悲しませることはぼくにはできない。
だから、悩んで悩んで切り拓け。
そう思っています。
【僕はイエス様が嫌い】この世は美しく、残酷で不条理だ。祈りって…【ネタバレ有レビュー】
こんにちは、ちぇるです。
自己紹介を書いたはいいものの、全く更新していなくて申し訳ございません。
こちらはクリスチャン系に住み分けしてあるのですが、はてなブログが使い心地いいのでメインでごっちゃにしてもいいかもしれません。
僕は映画を見るのが好きで、リハビリにもなっているので普通に映画の感想ブログでもいいですし。
気ままに好きなことを書いていきたいと思います(^▽^)/
先ほど、映画「僕はイエス様は嫌い」を鑑賞しました。
監督は22歳という異例の若さで、インディーズ映画とはとても思えない、非常に手が込んでいるなという印象でした。
公式サイトはこちら↓
この某米津さん似な男の子・ユラが東京から雪国地方のミッションスクール(小学校)に引っ越して……というところから物語は始まります。
【あらすじ】
ネタバレ注意!
小学五年生の主人公・ユラは両親とともに1年だけ祖母のもとに引っ越すことになる。
祖母の家は良くも悪くも「日本の古い家」で、亡き祖父の祭壇や、いろんな置物が置いてあった。
特に神様らしい神様を信じているわけでもない普通の家計、だけど新しい小学校はミッションスクールだった。
ミッションスクールといってもフツーに学び、フツーの子供たち。
違うところといえば黒板に聖句(聖書の言葉)が書いてあったり、牧師さんがお話してみんなで歌ったり祈ったりする礼拝があることだろうか。
そんな行事や、聖書を持ってとまどいつつも、ユラは試しに、と「神様、ここでも友達ができますように」と誰もいない礼拝堂で祈ってみる。
そんな時だった。
なんと小人のようなイエス様が現れたのである!
本当に手乗りなコミカルなイエス様。
その後、ユラはカズマという同級生と知り合い、サッカーをして遊び友達になる。
「ああ、神様がかなえてくださったんだ」とユラは嬉しくなる。
その日の夜、入浴中のユラは、アヒルさんに乗っている小さなイエス様をじっと見て、
「お金をください」と祈ってみる。
そうすると、祖母から「おじいちゃんのへそくり見つけた」とお金を渡される。
本当にすごい、なんでもかなえてくれる、とユラは祈ると来てくれる小さな小さなイエス様を信じるようになる。
カズマと毎日のように遊び、クリスマスの日には別荘に呼ばれ雪景色の中二人の時間を楽しんだり、
カズマのお母さん(いつも笑っている、とユラは言う)のクリスマスのお祈りを聞いたりするユラ。
そんな日がずっと続くと思っていたが、ある日、カズマは車にはねられてしまう。
「イエス様、カズマがいる病院まで連れて行って」そうして小さなイエス様についていった先の病院で、重傷を負い昏睡状態にあるカズマと、嘆き悲しみながらカズマの父に「いつも自分のことばかり…」と訴えるカズマの母親の姿を見た。
ユラはなんでも叶えてくれるイエス様にお祈りしようと、全力でそのまま家に帰り、お祈りをする。
しかし。
イエス様は、現れなかった。
何度も、お願いだから、出てきて、そうしても、出てきてくれなかった。
初めて会った礼拝堂でお祈りしてみても、出てきてくれなかった。
そして後日、祈りはむなしくカズマは帰らぬ人となった。
ユラは、カズマの母親の希望で、カズマのお別れ会の弔辞を読み、祈りをすることを打診され、弱弱しく承諾する。
その時、先生に「祈りは意味なかった」とぼそりと告げる。
弔辞には、イエス様のことは書かなかった。
お別れ会当日、ユラはカズマの好きな青色の花を献花として捧げる。
ただ、後になってまた会えたらサッカーを一緒にしたいから、もっとうまくなっておくね、それだけ。
礼拝堂の席の前の列には、いつも笑っていた、もう笑っていない、カズマの母親が座っていた。
弔辞を読み終わり、形だけの祈りをしようと思ったその時。
あの、イエス様が現れたのである。
イエス様は何かを訴えているようであった。
けれども、ユラは両手を振り上げ、
聖書の上に立っていたイエス様を叩き潰す。
そしてユラは、亡き祖父(日曜礼拝に通っていたという)がしていたように、
部屋の障子に穴を開け、そこからの景色を覗き込んだ。
雪の中、グラウンドでサッカーをしていた二人の情景が映り込みEND。
・・・っていう感じのお話です。
展開としてはそんなに真新しいものではないですが、
非常に雪景色がうつくしく、二人の関係性も絵面もとにかく脆く繊細だ、としか言えません。
実際の礼拝で歌ったことがある讃美歌をBGMに雪の中遊ぶ二人のシーンで涙ぐみました。
ユラの願いはある意味打算的でした。望んだことを叶えてくれと。
だけどそれが悪いわけじゃない。
人間なんて打算的でしょう、と思うのです。
それに対する「罰」ですか?
いいえ、キリストは罰は与えない(と僕は考えている)
それに罰だとしたら、こんなにも残酷なこと...
僕はこれを「世界の美しさと不条理の共存、また神と人の不完全さ」と思っています。
つまりいいことばかりでもないし、全能の神だからといって全部いいほうに物事を変えられる力は持ち合わせていないと。
神だって残酷だと思っています。(神の息子・イエス様は好きですが神様はめっちゃ人ころしてるので怖いです)
結局は「抜いたカードでデュエルしましょ」状態なのかもしれません。
その状況で神様は見守ってくださると。必ずしも自分にとってうまくいくわけじゃないけど。
ぼくも「イエス様が嫌い」でした。
家庭内不和やマイノリティ性やいじめや性暴力など、しなくていい苦労をすっごくしたと思います。
本当にキリストが嫌いだった時もあります。
でも嫌いは意識している証拠。
段々と「…本当は、いるんじゃないか」「僕がイエスという人の前にいても、その人は『うん、いいよそのままで』と言ってくれるだろうな」と思ってきていました。
結局隣あわせで歩んできたわけで。
それで大学に行き聖書を買って、どこか救われる感覚はあったのです。
そして去年実際に救われたのです。
何も起こってないけど、「生かさせてくれた=痛みを背負ってくれた」
死に損なったのも理由があるかなと。生きてた、それだけがギフトで。
でもカズマは死んでしまいます。
ユラは死を、あまりにも大きいものを背負わなければなりません。
イエス様がいてくれなかったから。
呼んだのに。
ここで祈りのつまずきを覚えるユラですが、神との信頼関係の回復はするのかどうか・・・
神なんていない、と思ったであろうユラですが、最後に亡き祖父がしたように障子の向こうの景色をみていたことから、
「…ほんとうは、どこかに(救いが)あるんじゃないか」
と思っていたのかもしれません。
雪の学校でサッカーをする二人、その直後にエンドロールで流れたこども讃美歌「主イエスとともに」のメッセージ性が強烈でした。
主イエスとともに 歩きましょう どこまでも
主イエスとともに 歩きましょう いつも
うれしい時も 悲しい時も 歩きましょう どこまでも
うれしい時も 悲しい時も 歩きましょう いつも ♪
「イエス様」に出会って、裏切られて、どうなるかわからないけど。
一度は知り合ったのだから、不思議な存在としておしゃべりしつづけるのではないでしょうか。
イエス様や神様って、あがめたたえる存在というよりも、愚痴っておしゃべりするような存在です、僕にとっては。
答えがでない非常に難しい映画ですが、非常に美しい絵と残酷な事実を描いていて、
友情をテーマにキリスト教文化の紹介(祈り、礼拝など)もちょろっとしていてとっつきやすい映画だと思いました!
不条理ばかりの世の中ですが、イマジナリーフレンドとしてでも、気休めでも、心のオアシスでもいい、はたまた音楽や芸術でもいい。自分を鼓舞するために、周りを労わるために祈りやお願いをする、その行為が人生に深みをもたらしてくれるのではないかな、と思います。
乱文で申し訳ございませんが最高の映画です。どうか鑑賞いただければと思います。
はじめまして!(自己紹介)
初めまして、ちぇると申します。
主にLGBTQ当事者でありクリスチャンである自分の視点から感じたことを記していこうと思っています。
といっても、余りどっぷりその分野のことを書くわけでもなく、映画の感想や日々思うことなどが中心になってくるかと思います。
簡単に自己紹介を。
自分は宗教色のない一般家庭に生まれ、思春期を海外(米国カリフォルニア)で過ごしました。
そこではキリスト教はじめいろんな宗教が入り混じり、「あなたの宗教は何?」と聞かれるのが学生の間では普通でした。(もちろんセンシティブな話題には変わりないので、あまり望ましくはないのですが…)
そこで「無宗教」と告げると変だと言われ、日本の宗教観とは何か、自分の宗教的アイデンティティは何か、と問わざるを得ませんでした。
高校卒業後、帰国し国際基督教大学に入学。特にキリスト教に興味があったわけでもなく、広く様々な分野を学べるリベラルアーツ教育制度、多様なジェンダーに親和的な校風・システムに惹かれたためです。
卒業後、いったんは働いたものの家庭内暴力や精神疾患のため就職に困難を覚え、現在は就労支援施設で一般就労に向けて働いています。
そんな24歳のある日、ふと立ち寄った教会(プロテスタント)にて、神は愛を持って私たち(マイノリティももちろん含め)を造られたことを教わり導かれ、同じような境遇の方にもお会いでき、これ以上ないほどの感慨深い思いを体験し、回心。
毎週の祈祷会と礼拝を楽しみに通っています。
2019年の4月21日(イースター)に洗礼。
洗礼間もないので教会献身しつつ知識を付け、資金も貯めて神の計画通りだったら学びの舎へと赴きたいと思います。
LGBT(セクシュアルマイノリティ)。トランスジェンダー男性(女性から男性に性別変更済み)で、ほぼ男性愛者です。また、微妙に性的消費への嫌悪があります。
小さい時から自分の性別に違和感を持つと同時に、なぜ男の子と女の子を分けなければいけないのか、という規範そのものへの疑問もありました。
また、自分の恋愛対象も揺らいでいて、性別移行と同時に、男性として男性を愛したいのが自分なんだともがきながら思うようになりました。
戸籍の性別を変更しているので男性と法的に結婚は出来ませんが、それ以上に戸籍上でも男性になりたいという思いが強かったので身体・社会的にだけでなく法的にも性別移行することを決意しました。
ゲイもトランスも友人間ではオープン。これから働く場では、基本的にクローズで行かねばならないかなと思っています。
同性でもパートナーシップが結べることができたら、と願っています。
うつ病寄りの双極性障害二型・虐待による複雑性PTSDと、診断なし発達障害(ADHD)気質です。
趣味は映画鑑賞とイラスト、アニメゲーム、カフェ巡りなどインドアと見せかけたアウトドアです。
このnoteでは自由に、皆さんを楽しませるような記事を書けるように頑張りたいと思います。
ゆったりと更新していきますので、どうぞよろしくお願いします。